1964年のブレジネフ政権の発足によって、ソビエト国内の「雪解け」ムードは後退していきました。映画の世界でも、政府による干渉が次第に強まっていきました。映画作家たちにとって、文芸作品の映画化はこうした干渉からの逃げ道でもありました。それは、ソビエト政府にとっても、ロシアの偉大さを国外に示す格好のものともなりました。この国威発揚としての映画製作の傾向は、時代が進むとともに増幅され、70ミリ戦争スペクタクル映画や外国との合作映画へと発展していきました。
しかし、官僚による映画製作への干渉は、多くの優秀な作家たちの企画を妨げ、映画を闇に葬って行くことになりました。こうした冬の時代にあっても、一部の映画作家たちは、自らの信念をフィルムに焼き付けようとしました。この結果、こうした作家たちの映画は、しばしば上映禁止となってしまいました。
レンフィルムでも、1960年代から官僚による管理体制が確立されました。それは、まずレニングラード地方を統括する政治局員(共産党幹部)に映画を見せ、その後、モスクワの政治局員にも見せて、承認を得るというものでした。これは時として、モスクワの官僚には承認されてもレニングラードでは認められないという事態を起こしました。この体制は、1980年代後半のペレストロイカが始まるまで、20年以上も続きました。
アレクセイ・ゲルマンやアレクサンドル・ソクーロフのような才人を擁するレンフィルムの作品の幾つかは、この管理体制の犠牲となって、上映禁止処分となったり、公開されてもごく一部の限られた人にしか見ることが出来ないような所で上映されることになってしまいました。 |