ロシア映画社 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行 > 映画の都 レンフィルム

「道中の点検」(1971年 アレクセイ・ゲルマン監督) 1985年、ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカが始まりました。1986年5月に開かれた第5回ソ連邦映画人大会は、映画を国家のイデオロギー機構としてきたこれまでの体制に終止符を打たせるものとなりました。映画人たちは、芸術の官僚支配、検閲に反対し、新しいリーダーにエレム・クリモフ監督を選出して、映画組織の積極的な改革に乗り出しました。
 改革の第一歩は、アレクセイ・ゲルマン監督が1971年に製作した「道中の点検アレクサンドル・ソクーロフ監督の1978年の長編処女作「孤独な声など、これまで長らく上映禁止となっていた作品を公開することから始まりました。
 改革は、映画撮影所の創作上の独立だけでなく、経済的な独立もめざしました。それは、それまで映画の製作に資金を提供し、映画配給をコントロールしてきた国家と決別して、自己採算の原則にもとづいて映画を製作し配給することを意味していました。
 1991年、ついにソビエト連邦は崩壊し、ロシア共和国が成立しました。いきなり資本主義の大海に押し出されたロシアは、経済危機に陥ってしまいました。その後、経済は徐々に復興して、21世紀の初頭には、かなり高い経済成長の記録を見せるまでになりました。こうしたロシアの情勢は、ソビエト崩壊の直後にはマフィアを生み出し、後には一部の富める人と多くの貧しい人々という格差を生み出すことになりました。そして、社会における文化・芸術の占める位置も大きく変わってしまいました。
 このペレストロイカからソビエト崩壊、そして現代と移り変わった時代に、レンフィルムも変貌を遂げました。レンフィルムは、数ヶ所のスタジオや製作集団からなる協会組織となったのです。レンフィルムに所属するスタジオには、例えば、アレクセイ・ゲルマン監督が主宰する「第一作実験映画スタジオ」があって、監督自身の映画を製作するほか、国の助成金やスポンサーなどに頼って、若い作家の作品を積極的に製作していきました。
 資本主義の時代になると、ロシアの観客は外国映画、とりわけハリウッド映画に集中し、映画動員数も「孤独な声」(1978年 アレクサンドル・ソクーロフ監督)ソビエト時代と比べると激減してしまいました。このような状況で、ロシア映画を独立採算で製作することは難しく、資金や最新の機材の調達のため、外国資本との合作が行われるようになりました。レンフィルム所属スタジオのひとつ「トロイツキー・モスト」は、パーヴェル・ルンギン監督の「タクシー・ブルース」(1990年)で合作を成功させたことから、この方向を積極的にとるようになりました。
 一方、映画作家の中から独立した映画会社を興す人々も現れました。ロシア共和国内の映画製作本数は1992年には400本を越え、空前のブームを思わせましたが、直ぐに激減してしまいしました。多くの独立映画は1作で終ってしまったのです。
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ソヴェート映画史−七つの時代
服部美術館・特別展「レンフィルムの映画を描く」
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