ロシア映画社 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行 > 映画の都 レンフィルム

ミスター・デザイナー(1988年 オレーグ・テプツォフ監督) やがて、既存のスタジオも製作本数は、徐々に減っていきました。一方で、レンフィルムでも働いたことのある映画人のひとり、アレクセイ・バラバノフ監督は、自らの映画製作会社СТВ(STV)を興しましたが、СТВは、1999年には5本の映画を製作し、レンフィルムの製作本数をも抜いて、ロシア国内で一番の製作数を持つ会社となりました。
 1999年に就任したプーチン大統領は、ロシア映画の振興を明言しましたが、その政策は、映画の製作部門と配給部門とを切り離そうとするものでした。ソビエト時代に製作した名作映画のビデオ化やDVD化など配給部門の売上で糊口をしのいできた撮影所にとって、これは厳しいものとなってしまいます。
 2002年には、モスフィルムでさえ純粋に自社アレクセイ・バラバノフ監督作品「ロシアン・ブラザー」(1997年製作 アップリンク配給)製作した映画は1本だけでした。2003年のアレクサンドル・ソクーロフ監督作品「父と子」はレンフィルムのスタジオで撮影されましたが、この映画は、ドイツ、オランダ、フランス、イタリアなどのプロダクションが共同製作したものでした。現在、モスフィルムでもレンフィルムでも映画製作部門は、コマーシャル・フィルムやTVなどを含む他社製作映画へのスタジオ貸しがほとんどとなっています。ソビエト映画時代からの優れた伝統と国立映画学校VGIKなどの存在により、ロシア映画界には新しい才能も確実に育って来ていますが、映画製作会社としてのレンフィルムにとって、ますます厳しい時代を乗り切らねばならないようです。
●1980年代後半からの代表的なレンフィルム作品
冬のチェリー(1985年 イーゴリ・マスレンニコフ監督)
死者からの手紙(1986年 コンスタンチン・ロプシャンスキー監督)
ミスター・デザイナー(1988年 オレーグ・テプツォフ監督)
日陽はしづかに発酵し…(1988年 アレクサンドル・ソクーロフ監督)
(1988年 ユーリー・マミン監督)
私はスターリンのボディーガードだった(1989年 セミョーン・アラノヴィッチ監督)
護送兵(1989年 アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
動くな、死ね、蘇れ!(卜ロイツキー・モスト1989年 ヴィターリー・カネフスキー監督)
ミュージアム・ビジター(卜ロイツキー・モスト/独ZDF合作1989年 コンスタンチン・ロプシャンスキー監督)
タクシー・ブルース(卜ロイツキー・モスト/ASKユーロフィルム/MK2/ラ・セット合作1990年 パーヴェル・ルンギン監督)
愚者の挑戦(1990年 アルカーディー・ディガイ監督)
汝、去るべし(1991年 ドミトリー・アストラハン監督)
アリアの追憶(1996年 アレクサンドル・スホチェフ監督)
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ソヴェート映画史−七つの時代
服部美術館・特別展「レンフィルムの映画を描く」
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