こうして革命以前の豊かなロシア映画を見せつけられると、かつての日本人はこのような映像を見ることができたのだろうか、と疑問が湧いてきました。ロシア・ソビエト映画を日本で上映することに多少の縁を持ってきた者としては、帝政時代のロシア映画が日本で輸入・配給されていたのだろうか、といったことが気がかりになります。そこで、キネマ旬報などの資料を漁って少し調べてみることにしました。
日本で上映されたソビエト時代以前のロシア映画のことは、実はあまりよく解からないところがあります。これはロシアにあっては、ロシアで映画が公開され、ロシアで映画が撮影された1896年から1917年のソビエト政権が樹立し、1922年に映画の国有化されるまでの期間となります。帝政末期、ニコライ2世の即位から退位して、新政権が打ち立てられるまでの時代と言えましょう。
この時代の初期、1900年以前、映画はまだ目新しい見世物の域を出ず、1本の作品としては数分程度の短いものでした。日本では例えば「錦輝館活動写真会」などと銘打って、数作品を1回のプログラムとして上映していました。これらの映画の題名は、当時の新聞などで、ある程度は解かるのですが、それが日本で作られたものか海外のものなのかも判然とはせず、内容にいたっては題名から類推するしかないというものがほとんどです。
世界史上で映画の誕生は、1895年、リュミエール兄弟による「シネマトグラフ」のパリでの公開とされています。ロシアでも1896年5月にシネマトグラフが公開され、この年の12月ニコライ2世の戴冠式がリュミエールの派遣したカメラマンによって撮影されています。このフィルムは世界中で公開され、歴史上初の映画によるルポルタージュとして記録されることになりました。
日本ではフランス留学の時にリュミエールと同窓だったという因縁で、稲畑勝太郎がシネマトグラフを輸入し、1897年(明治30年)2月に大阪で公開してます。この時、8本の映画が上映されているのですがこの中にニコライ二世の戴冠式のフィルムと思われるものが含まれています。
露帝戴冠式の貴顕
1897/2/15 大阪南地演舞場封切
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