さて事の起こりは、5年前。
「モスクワ850年祭の行事の一環として、第17回のモスクワ国際児童青少年映画祭を例年になく大々的にやる、ついては国際審査員の一人として日本の適材を一人紹介して欲しい」とモスクワから連絡があったのである。
すぐに頭に浮かんだのが、扇 千恵さん。ロシア映画の研究者としてはもちろん、全大阪映画サークル協議会を通しても親交があり、我社のスタッフの一人とは大学で同じ時期に学んだ仲でもある。
「当方は、扇さんを強く推薦する」とモスクワの映画祭担当事務局に連絡。扇さんは、審査員の一人として映画祭に参加することになり、1997年の秋には、扇さんを支援するスタッフとして筆者も同行することになったのだった。この時の彼女の奮闘ぶりが映画祭関係者に強い印象を与えることになったようだ。
そして、2002年の暮。モスクワから届いた一枚のファックスには、「扇千恵氏を第19回のモスクワ国際児童青少年映画祭の国際審査委員長として招聘したい」と告げられていた。またまた出番である。マネージャーとでも私設秘書とでも肩書きは何でも良いので、兎に角、同行して、扇さんのこの大役を応援せねば…
映画祭の期日は、2002年12月29日から2003年1月6日まで。これまで、モスクワ、タシケントと何度となく映画祭に赴いてきたが、新年を海外で迎えたことはなかった。さらに思い出してみると、真冬のロシアに出掛けたことがない。我社で厳冬のロシアの経験がないのは筆者だけなのだ。対露貿易のエキスパートである我がスタッフたちは、モスクワどころか極東シベリアの僻地で零下数十度を経験したつわものたちなのだ。「年寄りの冷や水」と、彼らにひやかされながら、モスクワへの出発の日を待つことになった… |