ある時、パラジャーノフは自分のことをこ
う書きました――「私、セルゲイ・パラ
ジャーノフは1924年、トビリシに生まれ、同
所で死ぬ予定である。若い頃、何で生活の糧
を得ようかと思案した末、映画大学に入り、
監督になり、それ以来、飢えている。」
逆説的な表現や作り話の好きな彼でした
が、この場合は全くの真実を述べています。
運命は総じて彼に無慈悲で、死の直前になっ
てようやく真価を認められるという一連の芸
術家たちと同じいばらの道を彼も歩いたので
す。
若い頃は彼よりもはるかに才能のない監督
の助手として働きました。50年代には、作っ
たことを後に自ら恥じるような、今日では完
全に忘れられた映画を作っていました。それ
らの作品が日和見主義的だったとか、体制支
持的だったということではありません――そ
のような映画は彼は一本も作っていません―
―ただ月並みで底が浅く、魂や心がこめられ
ていなかった、ということです。妻と幼い息
子を養うためにそうしなければならなかった
のです。でも、彼はその真の才能を他の面で
発揮しました。彼は絵をかき、コラージュを
作り、シナリオを書きました。ただ、これら
のシナリオは、映画化する人がいなくて、ま
た彼自身が映画化したくても、許可されませ
んでした。
「そして突然、彼は驚くべき映画を作っ |
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た。」と各新聞は書きたてました。でも、そ
れは「突然」だったのではなく、自分がやり
たいこと、やれることをやる機会がようやく
与えられたときに、彼の才能とファンタジー
と魂がスクリーンの上に一度に噴出した結果
だったのです。映画大学を卒業して十年後に
してやっとです|
「火の馬」は、どの作品にも似てない、誰
の影響も受けない映画になりました。彼は映
回の世界に「パラジャーノフの映画」という
新しい流派を作ったのです。たとえ彼がこの
作品の後に一本も映画を作らなかったとして
も、彼はロシア及び世界の芸術史に名を残し
たでしょう。彼は多くの監督に影響を与えま
したが、彼を真似ようという試みは全て無駄
になり、彼の水準に達した者は一人もいませ
んでした。
「火の馬」の後に「ざくろの色」(「サヤト
・ノヴァ)、「スラム砦の伝説」、「アシク・ケ
リブ」が作られました。しかし、「ざくろの
色」の後には十年のブランクがあります――
監督は、当局が是認していない性的嗜好癖
と、公認のイデオロギーに反する見解を持つ
という理由で逮捕されたのです。彼は自由で
あり続けたために自由を剥奪され、長い問監
獄や収容所で服役しました。
彼が完全な自由を得たのはペレストロイカ
以後で、国外へ出るのを許可されたのは60
才になってからでした。世界が彼の映画だけ |