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「火の馬」(1991年4月26日発行)より転載
セルゲイ・パラジャーノフ監督
 ある時、パラジャーノフは自分のことをこ
う書きました――「私、セルゲイ・パラ
ジャーノフは1924年、トビリシに生まれ、同
所で死ぬ予定である。若い頃、何で生活の糧
を得ようかと思案した末、映画大学に入り、
監督になり、それ以来、飢えている。」
 逆説的な表現や作り話の好きな彼でした
が、この場合は全くの真実を述べています。
運命は総じて彼に無慈悲で、死の直前になっ
てようやく真価を認められるという一連の芸
術家たちと同じいばらの道を彼も歩いたので
す。
 若い頃は彼よりもはるかに才能のない監督
の助手として働きました。50年代には、作っ
たことを後に自ら恥じるような、今日では完
全に忘れられた映画を作っていました。それ
らの作品が日和見主義的だったとか、体制支
持的だったということではありません――そ
のような映画は彼は一本も作っていません―
―ただ月並みで底が浅く、魂や心がこめられ
ていなかった、ということです。妻と幼い息
子を養うためにそうしなければならなかった
のです。でも、彼はその真の才能を他の面で
発揮しました。彼は絵をかき、コラージュを
作り、シナリオを書きました。ただ、これら
のシナリオは、映画化する人がいなくて、ま
た彼自身が映画化したくても、許可されませ
んでした。
 「そして突然、彼は驚くべき映画を作っ
た。」と各新聞は書きたてました。でも、そ
れは「突然」だったのではなく、自分がやり
たいこと、やれることをやる機会がようやく
与えられたときに、彼の才能とファンタジー
と魂がスクリーンの上に一度に噴出した結果
だったのです。映画大学を卒業して十年後に
してやっとです|
 「火の馬」は、どの作品にも似てない、誰
の影響も受けない映画になりました。彼は映
回の世界に「パラジャーノフの映画」という
新しい流派を作ったのです。たとえ彼がこの
作品の後に一本も映画を作らなかったとして
も、彼はロシア及び世界の芸術史に名を残し
たでしょう。彼は多くの監督に影響を与えま
したが、彼を真似ようという試みは全て無駄
になり、彼の水準に達した者は一人もいませ
んでした。
「火の馬」の後に「ざくろの色」(「サヤト
・ノヴァ)、「スラム砦の伝説」、「アシク・ケ
リブ」が作られました。しかし、「ざくろの
色」の後には十年のブランクがあります――
監督は、当局が是認していない性的嗜好癖
と、公認のイデオロギーに反する見解を持つ
という理由で逮捕されたのです。彼は自由で
あり続けたために自由を剥奪され、長い問監
獄や収容所で服役しました。
 彼が完全な自由を得たのはペレストロイカ
以後で、国外へ出るのを許可されたのは60
才になってからでした。世界が彼の映画だけ
(2)
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