トルストイは『戦争と平和』(1865〜69)を書き上げた直後からひとつの小説の構想を抱いていました。1870年のはじめ、彼が妻のソフィアに語ったそれは、ある上流階級の婦人の不倫を罪としてではなく不幸として描く、というものでした。しかし、この小説は書き出しを17回も書き改めていました。
1872年、ヤースヤナ・ポリャーナの近郊に住むある地主夫人が、夫と女性家庭教師との仲を嫉妬して、ヤーセンキ駅で鉄道自殺をとげるという事件が起きました。トルストイはこのことを知ると、直ぐにヤーセンキに向かい検死にも立会いました。彼は、この事件とその夫人の死に衝撃を受けたようで、数日間、口をきかず、黙って物思いにふけっていたそうです。
その翌年の1873年、トルストイの幼少年期あるいは青年時代となにかと世話になった叔母のタチヤーナは病床にありました。見舞いに訪れたトルストイは、叔母の枕元にプーシキンの『ベルーギン物語』があるのを見つけます。なにげなくその本の最初のページを開いた彼は、ひらめきを得ました。
こうして、1873年3月18日の夜、プシーキンの未完の小説の「客たちは別荘に集まってきた。」という冒頭の文章を引用し「オペラの後、客たちは公爵夫人の家に集まった。」という書き出しで始まる12章からなる小説が書き始められました。当初、題名すらなかったこの小説『アンナ・カレーニナ』は、何度となく書き改められ、1875年から77年にかけて「ロシア報知」に「復讐するは我にあり、我これを与えん」という題辞を掲げて発表されました。 |