ウィーン会議以降の19世紀のヨーロッパは、イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアの五大列強間の相互バランスによって安定が保れていました。しかし、19世紀後半になるとドイツ、イタリアが国家統一を成し遂げ、この均衡が覆されることになりました。19世紀末から20世紀の初めにかけて、資本主義的躍進と世界政策を積極化して膨張するドイツは、ヨーロッパの列強にとって重大な脅威となっていました。ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアは、三国同盟を結び、これがヨーロッパを2分する極のひとつとなりました。
これに対して、イギリスは1904年、フランスとの間に英仏協商を締結。さらに、長年、敵対視してきたロシアとの間にも1907年に英露協商を締結しました。こうして、ヨーロッパのもう一方の旗頭となる英仏露による三国協商体制が出来上がりました。
1908年、オスマン・トルコ帝国では、日露戦争で日本が勝利したことに刺激された青年トルコ党が、近代化をめざす革命を起こしました。その混乱に乗じてオーストリアは、スラブ民族の居住するボスニア、ヘルツェゴビナの完全併合をトルコに認めさせました。また、ブルガリアもオーストリアの了解のもとにトルコからの完全独立を宣言しました。
1911年には、リビアをめぐるイタリア・トルコの戦争が起きましたが、日露戦争に敗れ、極東への進出を削がれたロシアにとって、この戦争は、ダーダネルス、ボスポラス両海峡に目を向けさせるものとなりました。また、オスマン・トルコ帝国の衰退とともにパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義との激しい民族主義的対立がバルカン半島に台頭し、国際対立の焦点ともなっていきました。
1912年から13年、2度にわたるバルカン戦争は、セルビアの勢力拡大と威信の高揚をもたらしました。ロシアは、セルビアの庇護者の地位に立つことになりました。オーストリア・ハンガリーとセルビアとの対立は激化し、この戦争で敗れたトルコ、ブルガリアはドイツへの依存を強めることになりました。やがて、ドイツの将軍がトルコ軍顧間に就任しすると、ロシア国内に反ドイツ的な気分が一挙に高まりました。 |