ロシア映画社 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行 > 映画の都 レンフィルム

 クリゴーリー・ コージンツェフ監督は、1905年、キエフ生まれ。少年の頃は、アメリカ映画の連続活劇や喜劇物に熱中していました。12才の時、10月革命が起き、前衛演劇が流行する中で、青年コージンツェフは、友人レオニード・トラウベルク、セルゲイ・ユトケビチとともに実験的演劇グループ、FEKS(エキセントリック俳優工房)をレニングラードに創立しました。映画の処女作は1924年の「十月っ子の冒険」(トラウベルクとの共同演出)。以後、トラウベルクとのコンビで、ソビエト映画の第一線に活躍することになりました。その中での名作は、1934〜38年のいわゆる「マクシム三部作」で、社会主義リアリズム路線の代表的傑作と呼ばれることになりました。
 戦後はトラウベルクとのコンビを解消。1947年の「先駆者の道」でスターリン賞を得ましたが、彼の名を世界的にしたのは1957年のカラー・シネマスコープ作品「ドン・キホーテ」でした。
 また、彼は西方文化に造詣が深く、とくにシェークスピア研究では著書『シェークスピア―わが同時代人』を1962年に出版したほど。そのうんちくと映画生活30年のキァリアを傾けたのがこの「ハムレット」でした。
 しかし、映画「ハムレット」誕生までの道のりは、平坦ではありませんでした。1961年度のレンフィルムの製作予定作品には、コージンツェフ監督の提案する「ハムレット」がラインアップされていました。この時には、すでに脚本も出来上がり、撮影所の検閲も終えていましたが、コージンツェフ監督は、モスクワに呼び出され、文化大臣に批判されました。「今日、ソビエト人民は膨大な数の工場、発電所などの建設に従事している。今、映画にすべきは、そうした場所で働く彼ら労働者の英雄的行為であって、"ハムレット"ではない。」文化大臣は、そう言って、「ハムレット」の映画化に反対しました。
 コージンツェフ監督は、シェークスピアの戯曲は世界的なもので、あらゆる国の最高の劇場で上演され、その映画化も世界中の優れた監督たちによってなされていると言って、文化大臣に反論しました。しかし、文化大臣はこれにこう回答したそうです。「ソビエト人民が"ハムレット"を観たいのなら、ローレンス・オリヴィエ主演のイギリス映画を買えば良い。その方が安上がりだ!」こうして、「ハムレット」は、製作予定作品から外されることになってしまいました。
 時が経ち、閣僚人事の更新で文化大臣が交替すると、コージンツェフ監督にチャンスがやってきました。「ハムレット」の撮影を開始する可能性が与えられたのです。撮影は、1962年の暮れに始まりましたが、撮影所が正式に作品を承認した訳ではありませんでした。
 1964年3月31日、映画「ハムレット」の発表会が行われました。丁度この時、イギリスのロイヤル・シェークスピア劇団がレニングラードで公演を行っていました。この劇団員全員が、映画の発表会に出席し、上映後、高名な俳優たちが総立ちで、コージンツェフ監督の成功を祝福しました。
 これで勢いを得た映画は、4月には公式に「シェ−クスピア生誕400年作品」として承認されました。その後、1964年の秋にソビエト国内で公開、また、数多くの映画祭で上映され、1964年のベネツィア映画祭では、圧倒的な好評を博し「審査員特別賞」を授けられました。シェークスピアを生んだイギリス本国でも、この映画には惜しみない賛辞が捧げられ、1948年のオリビエ作品を上まわる名作とも騒がれるほどでした。

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