18世紀末、フランス革命から生まれた共和制は、クーデターによってナポレオンによる独裁の時代を迎えました。ヨーロッパ各国を進撃するナポレオンの動きは、最初は封建支配から諸国の民衆を解放するものとして迎えられましたが、次第に独裁支配による占領者として反感の対象となっていきました。各国の思惑も絡み、集合離反が繰り返されて、ナポレオンと対仏同盟側との間でヨーロッパの地図は度々書き換えられることになりました。
こうした中で、1806年以来、ナポレオンはみずからが支配するヨーロッパ大陸諸国とイギリスとの間の交通や通商を全面的に禁止する"大陸封鎖"を強要していました。しかし、1810年末、ロシアのアレクサンドル1世は、経済的な事情から大陸封鎖を解除しました。ナポレオンは封鎖の継続を要求しましたが、ロシアはこれを拒否しました。
1812年6月、ナポレオンが57万5000の大軍を率いてロシアに侵入しました。迎え撃つロシア軍は、公称22万。ロシア軍は、後退を重ねました。ロシア側は、焦土戦術をとり、8月にナポレオン軍がスモレンスクに入城すると、8割以上の建物は焼け落ちていました。やがて、8月末にはモスクワ郊外ボロディノで初の本格的決戦が行われ、ロシア軍は7万の損失を出したにもかかわらず、将兵の意気は盛んでした。モスクワで決戦に臨むか退却するかで、ロシア軍内で意見が分かれましたが、総司令官のクトゥーゾフ将軍は、モスクワからの退却を決断します。こうして、9月2日、ナポレオンがモスクワに入城すると、そこは無人と化していました。夜には、市内の各所から火の手があがり、モスクワは1週間にわたって燃え続けました。
ナポレオンはクトゥーゾフ将軍に停戦交渉の使者を送りますが、将軍はこれを拒絶します。食料を得る方法を断たれたナポレオン軍は、カラスを撃ち、猫さえ食べたと言われています。10月4日、クトゥーゾフ将軍はナポレオン軍への反撃を指令します。
ナポレオンは、1ヵ月でモスクワを棄て、敗走しました。その前途には予想以上に厳しい"冬将軍"が待っていました。ロシア軍は逃げるナポレオン軍の側面にはりついて追いかけ、奇襲を繰り返しました。さらに農民よるゲリラ攻撃もナポレオン軍を脅かしました。11月末、ロシア領内から逃れることができたナポレオン軍は、1万にも満たない数となっていました。 |