サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…

フリードリヒ・エルムレル監督 フリードリヒ・エルムレル監督は、1898年ラトヴィヤ生まれ。早くに父を亡くし、12歳で働きはじめました。国内戦の時代には赤軍で戦い、その後、チェーカー(後のKGB)に勤務しました。1923年〜24年には、レニングラード映画芸術学校俳優科に学び、ソフキノ・レニングラード撮影所の脚本部に入りました。同時に、実験映画工房(KEM)を組織して、初監督作品として実験映画「しょう紅熱」(1924)を製作しました。以後、商業映画として海外にも輸出されてヒットした「魔街」(1926年 エドワルド・ヨガンソンと共同監督)、革命後の社会の新たな変化を描いた「帝国の破片」(1929年)など、サイレント期に演出家としての地位を固めていきました。トーキーに入ると、本作「呼応計画」の後、セルゲイ・キーロフをモデルにした「偉大なる市民」(1937年〜39年)、スターリングラード攻防戦を参謀本部内の知的葛藤として描いた「大いなる転換」(1945年、1946年カンヌ国際映画祭脚本賞)など巨匠としての道を歩みました。その作風は、社会主義リアリズム全盛の時代にあっても、決して教条主義的に硬直することなく、常に個性的で創造的なものでした。ソビエト映画人同盟の創始者の一人で、その理事を務め、レンフィルムの芸術監督も努めるなど活躍しましたが、1967年に亡くなりました。エルムレル監督作品は、日本では「魔街」と「呼応計画」が公開されています。
セルゲイ・ユトケーヴィチ監督 セルゲイ・ユトケーヴィチ監督は、1904年サンクト・ペテルブルグ生まれ。14歳の時、キエフでグリゴーリー・コージンツェフと人形劇場を開き、1921年からはモスクワのメイエルホリドが指導する国立演出工房や高等芸術技術工房に学んで、劇場の美術監督や演出助手を務めました。この間、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督と知り合って、親交を結びました。1922年には、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)に戻り、コージンツェフらと実験的な演劇集団、エクセントリック俳優工房(FEKS)の創設に参加しました。この縁で、コージンツェフらとともにレニングラードで映画界入りし、1924年「ラジオを聞け!」(エス・グリュベルグと共同監督)を発表しました。本作「呼応計画」やユトケーヴィチ監督の生涯のテーマともいうべき"レーニンもの"の第1作「銃を持つ人」(1938年)などで、映像作家としての地位を確立しました。第2次大戦後、レニングラードを離れ、モスクワに移りました。スターリン全盛の時代には、一時ふるわない時期もありましたが、1955年の「オセロ」で1956年カンヌ国際映画祭監督賞を受賞し、一躍、世界的な巨匠となりました。ユトケーヴィチ監督は、フランスをはじめとする西ヨーロッパの文化・芸術に造詣が深く、イブ・モンタンの記録映画なども製作しています。1982年には、ベネチア国際映画祭で映画功労賞を受賞するなど、生涯にわたって実験精神に溢れた映像作家でした。また、ソビエト映画人同盟のエイゼンシュテイン遺産保護委員会委員長を務め、1967年には、エイゼンシュテインの「ベージン草原」のスチール写真編集版をナウーム・クレイマンと共同監督しています。1985年に亡くなりましたが、ユトケーヴィチ監督作品は、日本では、「三つの邂逅」(1950年 フセヴォロド・プドフキン、アレクサンドル・プトゥシコと共同監督)、「オセロ」、「ウラジーミル・レーニンの想い出」(1965年)が一般公開されています。また、「ベージン草原」スチール写真編集版は、シネクラブで自主上映されました。
「呼応計画」は1934年3月1日、日蘇商会の配給で初公開されました。
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