1918年の初めに開催された第3回ソビエト大会で、レーニンは、ソビエトは社会主義の国家として進んで行くことを宣言しました。3月には、「ブレスト・リトフスク条約」を結んで、ドイツとの戦争を終らせました。しかし、この条約によって、ロシアはバルト諸国、フィンランド、ポーランド、ウクライナなどの領土を失うことになりました。これに憤激した人々によって、反ボリシェビキの動きが広がっていきました。また、左派エス・エルの閣僚は全員辞任しました。
第1次大戦から一方的に離脱してしまったロシアに対し、3月にイギリス軍がムルマンスクに、4月には日本軍がウラジオストークに上陸し、新政権に圧力をかけようとしました。
こうした不穏な情勢の中、ソビエト政府は、首都をモスクワに移し、10月革命後、124日間をスモーリヌイの革命本部で過ごしたレーニンもモスクワへ向かいました。
ソビエト政府の誕生によって、大工業は国有化されました。しかし、都市の食糧難が深刻なものとなっていました。土地を自分たちの手で獲得した農民たちは、食糧を都市に供給する義務を感じなかったのです。そこで、ソビエト政府は、武装した労働者を農村に送り込みました。7月、左派エス・エルはこれに強く反発し、武力反乱を起こしました。
この反乱に先立つ5月以来、チェコスロバキア軍団の反乱により、極東からボルガ沿岸の各地のソビエト政権が次々に倒れていました。チェコスロバキアは、オーストリアの支配下にあったため、第一次世界大戦では、ロシアと戦いました。このチェコスロバキア軍団は、大戦中にロシア軍に投降し、その後はロシア側の軍団としてドイツと戦っていました。ロシアが戦争を止めた後も、彼らは戦いを中止しようとはせず、ウラジオストークから船に乗ってヨーロッパの戦場へ赴くことになっていました。しかし、その移動中にドイツ・オーストリア軍の捕虜と争いを生じ、武装解除を命じられたことから反乱を起こしたのでした。
同じ頃、アルハンゲリスクに英仏軍が上陸し、反ソ政権を擁立しました。さらに、8月に入ると、日本とアメリカがチェコスロバキア軍団の救出を口実にシベリア出兵を始め、日本軍は、10月末までに7万5000の兵力を送り込みました。
こうした動きに呼応して、ロシア各地で様々な反ボリシェビキの勢力が活発になりました。8月末には、レーニンが暗殺者に撃たれて重傷を負うという事件も起きました。ソビエト政権は、こうした反対派にチェーカー(後のKGB)による「赤色テロル」で対抗し、またトロツキーを最高司令官とする徴兵制の赤軍を創設して、以後3年間に及ぶ国内戦を戦いました。
熾烈な国内戦を戦い抜くために、ソビエト政権は農村からの苛酷な穀物徴発を断行し、全ての工業を国有化して、厳格な労働規律を労働者に課せました。この政策は「戦時共産主義」と呼ばれています。 |