サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

 反ボリシェビキの勢力は、チェコスロバキア軍団に支持されたエス・エル派と旧軍人、帝政派、リベラル派などで、各派は対立していました。1918年9月のウファ国家会議で妥協し、反ボリシェビキによる全ロシア統一政府が生まれました。しかし、11月には帝政派の陸海軍相コルチャークがクーデタを起こし、この政府は短命に終わりました。
 コルチャークは、日本の支持を受けて沿海州に勢力を持っていたセミョーノフを指揮下に治め、全シベリアの支配者としての地位を固めました。1919年3月、コルチャークは、ウラルから西に向かって進撃を開始しました。4月にはカザン、サマラの近郊にまで達しました。同時期、エストニアから、反ボリシェビキのロジャンコの軍が、ペトログラードへと向かっていました。赤軍を挟撃にして攻撃しようとしていたのです。
映画「チャパーエフ」(1934年 "ワシリーエフ兄弟"監督)より しかし、6月上旬、赤軍のチャパーエフ軍はウファを奪い返し、コルチャーク軍を押し戻しました。この時、シベリアでは、農民パルチザンが立ち上がり、コルチャーク軍と日本軍に襲いかかりました。その後、シベリアの極東方面に逃れたコルチャークは、1920年1月、チェコスロバキア軍団の寝返りによって、イルクーツクでボリシェビキ側に逮捕され、銃殺されました。
 コルチャーク軍を阻止したのもつかの間、南の反ボリシェビキ、デニキン軍が攻撃してきました。1919年6月下旬、ハリコフがデニキン軍の手に陥落しました。その勢いをかって、デニキン軍はモスクワへ向かいました。この時、赤軍側は混乱し、デニキン軍の前進を許してしまいます。10月上旬には、オリョールが陥落し、ペトログラードにはユデニチ軍が迫っていました。
 ここで、軍事人民委員トロツキーの作戦案が、危機を救いました。さらに、アナーキストのマフノに率いられたウクライナの農民パルチザン部隊が、デニキン軍の背後からかく乱しました。10月中旬には、赤軍が反攻に転じ、デニキン軍は後退し、12月、キエフが解放されました。また、ペトログラードに迫っていたユデニチ軍も撃退されました。しかし、赤軍は、マフノ軍を"脱走兵、裏切り者"として弾圧しました。
映画「女狙撃兵マリュートカ」(1956年 グリゴリー・チュフライ監督)より 1920年6月、反ボリシェビキの将軍ウランゲリが、4万の兵を率いてクリミア半島に入り、9月にはアゾフ海東岸のクバン地方に進出していました。赤軍は、これとの戦いにあたって"裏切り者"と呼んだマフノ軍と協定を結んで共闘することになりました。11月、共同作戦は成功し、ウランゲリ軍は壊滅しました。こうして、反ボリシェビキ白衛軍との戦いは終わりました。戦いの終わりと同時に、マフノ軍はまたしても"ソビエトと革命の敵"とされてしまいました。
 ほぼ同じ頃、ロシア南西部、中央農業地帯のタンボフ県で反ソビエトの大規模な農民の反乱(アントーノフの反乱)が起こっていました。さらに1921年の春には、これまでペテルブルグでの革命の栄光を担ってきた、クロンシタット要塞水兵が反乱(クロンシタットの反乱)を起こしました。マフノ軍と同じく、これらの反乱は厳しく鎮圧されました。
 また、グルジアにも赤軍が侵攻して、ソビエト政府が誕生し、革命政権の版図は旧ロシア帝国とほぼ同じものとなりました。ここに、国内戦の時代は終わりを告げました。
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