サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…>第1次大戦

ラスプーチンと彼の子供たち 1915年9月、ラスプーチンの関わりから、右翼議員のフヴォストが内相に任命されました。フヴォストは首相の座を狙っていましたが、1916年1月に首相に任命されたのは内務官僚のシュチュルメルでした。この人事もラスプーチンによるものでした。これに不満を持ったフヴォストは、ラスプーチンを暗殺しようとしましたが、露見して失脚してしまいました。
 1916年秋に再開された国会では、「愚行なのか裏切りなのか」という名高い政府批判演説が行われ、その中で、皇后をドイツのスパイとする疑念が述べられました。この演説から、流言飛語を生み、皇后とラスプーチンは愛人関係にあるなどと噂され、皇帝と皇族の権威は決定的に失墜しました。
 こうした中で、皇太后と皇族たちは、この年の10月末、ラスプーチンと皇后の関係を断ち切るよう、ニコライ2世に求めました。しかし、皇帝はこれに耳を傾けようとはしませんでした。
 一方、帝位継承権のある皇族の間では、アレクセイ皇太子の病気の秘密を知り、支配権を巡る確執も生じ始めていました。こうした人々にとって、皇族の権威を取り戻し、皇后を政治権力から引き離すには、ラスプーチンを消し去ることが、最良の方法と思われるようになっていました。ラスプーチンの暗殺者となったのは、ニコライ2世の姪を妻に持つフェリックス・ユスーポフ公爵でした。ユスーポフ家は、皇帝と同じロマノフ家の一門で、ロシア全土に37の広大な領地を所有するいう、皇帝と並ぶほどの富を誇示した、名門中の名門でした。フェリックスは、女装趣味もあったという当時の貴族の退廃ぶりを象徴するような人物でした。
フェリックス・ユスーポフ公爵 1916年12月29日の夜、皇帝の甥ドミトリー・パヴロヴィッチ大公と右翼の国会議員プリシケーヴィッチの2人の助けを受けて、フェリックス・ユスーポフは、ラスプーチンを自邸に招きました。物陰に共謀者を潜ませて、ユスーポフは青酸カリを混ぜたワインとケーキをラスプーチンにすすめたと言われています。しかし、ラスプーチンがこれらを口にしても死ななかったため、ユスーポフたちは銃を乱射して殺害、さらに死体に暴行を加えて、ネバ河の氷の下に投げ込みました。
 事件を知った皇后は、ユスーポフ公爵を逮捕させようとしました。しかし、彼はロマノフ一門であり、ユスーポフ家の富と権力は皇帝と言えども無視できるものではありませんでした。結局、ニコライ2世は、ユスーポフ公爵を流罪とすることにしました。その流刑地とは、ユスーポフ家が所有する広大な領地のひとつで、毎年、狩に出かける場所でした。
 ラスプーチンの死にもかかわらず、ロシアの政治は何ら変化することはありませんでした。もはや政府には、体制を立て直す力がまったくなかったのです。この後、ロマノフ王朝は、崩壊への道を歩むことになったのです。それは、ラスプーチンの予言した通りであったとも言えます…
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