■監督は語る
「この戯曲を映画化するにあたっては、戯曲の深みへ入って行かねばならないのですが、それがまた、はてしないのです。従って成功の鍵は底までもぐって行くほど息が続くかどうかにかかっているわけです。その意味で俳優の課題は複雑で、彼らの才能と芸にすべてがかかっています。
チューホフの戯曲に出演する俳優には一つの重要な素質が求められます。――彼らは孤独に生きていかなければならない、内に情熱を秘めて生きなければならないのです。
『ワーニャ伯父さん』ではすべての人が極度に、信じられないくらいに孤独です。この孤独感は現代の生活では我々が知らない、我々の社会では本質的でないものですが、この間題はその意味ではいま、ヨーロッパの芸術家たちが直面している問題だと思います。チェーホフの戯曲はすべて、文字どおり孤独の悲劇ですが、なかでも『ワーニャ伯父さん』はそうした孤独感の燃焼です。
ここに登場する主人公たちはたがいに邪魔しあい、皆がふしあわせです。マリーナとテレーギンのほかは皆そうです。
残りの人は精神的に苦しみ、信仰を見出せずに人生のむなしさに悩んでいます。恐らくこの問題――信仰と無信仰――はチェーホフを苦しめていた問題でもあったのです。
チェーホフのドラマトゥルギーは非常に緻密であり、むしろ非常に厳格に構成されています。もちろん、戯曲は舞台の制約を受けることも事実です。散文における対話は生きた話し言葉にきわめて近いわけですが、戯曲ではそれは演劇が要求するモノローグ、説明的なセリフとならざるを得ません。映画ではそうした説明はすべて必要ないわけです。
チェーホフの戯曲といえば感情にみちた、長い間を想起させます。事実、どの幕も映画を撮る動機になりえます。つまり、主人公たちの内面生活のモメント、彼らの精神的葛藤や混乱などに私は最も興味を引かれたのです…」
アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー
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