ドストエフスキーがペトラシェフスキー事件に連座して、シベリアのオムスクへの流刑、辺境の一兵卒としての勤務を解かれて、10年ぶりにサンクトペテルブルグの土を踏むことを許されたのは、1859年末のことでした。この時期は、1861年の農奴解放を前にして、ロシアの社会に高揚した気分がみなぎっている頃でした。ドストエフスキーもこのような社会情勢の中で精力的な活動をはじめ、1861年からは、兄のミハイルと雑誌「時代(ブレーミャ)」を創刊しました。ドストエフスキーは、同誌にシベリア流刑の体験を綴った『死の家の記録』と本格的な長編小説『虐げられた人たち』を連載して、文壇にカムバックしました。さらに、雑誌創刊の翌年には、2ヵ月半ほどの間に、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの各地をまわる慌しい旅でしたが、念願のヨーロッパ旅行も果たしました。
しかし、同じ頃、ドストエフスキーは個人生活の上でも、激動の中にいました。シベリア流刑の後、中央アジアのセミパラチンスクの守備隊に一兵卒として配属されたドストエフスキーは、その地で熱烈な恋愛をしました。後の『罪と罰』の登場人物マルメードフのモデルとされるアルコール中毒の小官吏イサーエフの妻のマリヤがその相手でした。彼女は、肺病を病んで、ヒステリックな女性でした。しかし、ドストエフスキーの情熱は激しく、夫の死後、数年に渡って求愛し続け、結婚を承諾させたのでした。その妻マリヤとの仲は、この頃冷え切ったものとなっていました。 |