そんな中、ドストエフスキーは1862年の秋頃から、「時代」の寄稿者であった女子学生のアポリナリヤ・スースロワに熱をあげるようになっていました。アポリナリヤは、この時代のインテリの風潮ともいうべきニヒリズムを信奉する自尊心の強い女性でした。20歳も年の離れた彼女に、ドストエフスキーは振り回されて、愛憎が交じり合った苦しみを味わいます。1863年の春には、「時代」が発行禁止の処分を受けてしまい、行き詰まったドストエフスキーは、アポリナリヤの後を追って、ヨーロッパに旅立ちます。しかし、それはまた、愛欲と嫉妬の日々でした。その苦しみから逃げ出そうとしたのか、ドストエフスキーは、とり憑かれたように賭博にのめり込んでしまいました。
この旅行から帰ると、妻マリヤの病状は悪化し、精神錯乱状態になっていました。翌年の春、マリヤは死んでしまいます。さらに6月、今度は兄のミハイルが死にました。ミハイルは莫大な借金を残していました。その返済は、ドストエフスキーに委ねられることになってしまいます。
1866年、借金に追われまくり、ドストエフスキーはサンクトペテルブルグにもほとんどいないような生活でしたが、『罪と罰』の連載をはじめます。しかし、その年の秋、ドストエフスキーは窮地に追い込まれることになります。
その1年前、ドストエフスキーは、悪質な出版業者のステロフスキーと過酷な契約を結んでいました。それは、その出版社から借金をする見返りに、1866年11月までに、新作の長編を書き上げないと、違約金を支払うだけでなく、ドストエフスキーの今後のすべての著作権を永久的にステロフスキーが所有する、というものでした。 |